藍染めから商社へ

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藍で江戸を染めあげる―商社としての挑戦が始まった

森六のルーツとなる藍は、古来より、多くの効能を持つ薬草や染料として重宝されてきました。江戸時代には藍染めが日本の庶民の暮らしに深く浸透し、明治初期に来日したイギリス人化学者が、町のあちこちに見られる藍色の美しさを「ジャパン・ブルー」と呼んで称賛したといわれるほどです。その普及の影には、森六の挑戦の歴史がありました。

阿波から江戸へ、世界も見据える拡大の歩み

森六創業の地である阿波国(徳島県)では、江戸初期の徳島藩の時代から精力的に藍の栽培や藍染めが行われていました。そうしたなか、森六の創業者である初代 森安兵衛が、青色染料を流通しやすいように加工した藍玉と、その肥料の商いを始めたのが1663年。これが360年を超える森六の歴史の第一歩です。創業当時は「嶋屋」と名乗り、藍作農家に肥料となる干鰯を売って、その代金を藍玉で受け取っていました。この取引方法は農家から好評を博していたといいます。

初代以降も、藩外との行商を開始したり、阿波藩の指定問屋として調達の仲介役を担ったり、藍玉の製造工場を設けたりするなど、代を重ねるたびに発展を遂げていきました。そして、浦賀にペリーが来航(黒船来航)した1853年、日本近代化の足音が聞こえるなか、六代 六兵衛信好はついに江戸に店舗を構えます。黒船とともに安価なインド木綿が普及したことで、藍染めのニーズも高まり、森六の商売が全国へと広がる大きな契機となりました。江戸時代での「藍」の広がりをいち早く予見したことで、事業の拡大を成功させたのです。

江戸時代に広く流通した藍染め木綿や木綿糸が量産されるようになり、作業着から高級衣装、のれんや生活雑貨まで、藍染めが使われました。贅沢な服装を禁じる「奢侈禁止令(しゃしきんしれい)」が出された後も禁止されなかったため、藍は生活の中に根付き、日本の代表的な色として定着したのです。

写真:江戸時代に広く流通した藍染め

時代の変化を先取りしたビジネス戦略で、化学品商社として成長

国内の事業だけで満足しなかった信好は、海外進出に挑みます。当時フランスでは、1867年のパリ万国博の閉幕後、日本に対する関心が急速に高まり、1870年代に「ジャポニスム」という文化現象に発展していました。こうした背景もあって、三井物産の協力のもと、1878年のパリ万博に「阿波藍」を出品。その後、三井物産パリ支店で藍の委託販売も試みたという記録が残っています。

1878年パリ万国博覧会場パリでの3回目の万国博覧会。エジソンが音声を電気信号に変えるマイクロフォンや蓄音機を披露するなど、科学技術の高まりを感じさせる万博となりました。

写真:1878年パリ万国博覧会場

その後も森六の挑戦は続きます。幕末には、安価で色もきれいなインド藍の輸入が開始され、阿波藍にとって代わるようになりました。森六では、八代 六郎がこの機を捉え、横浜の貿易会社からインド藍の仕入れを開始。全輸入量のうち相当量を森六で取り扱ったといわれています。さらにドイツで人造藍(インディゴ)の製造法が発明されると、「これからは人造藍の時代が訪れる」と考え、1904年に独のヘキスト社製の人造藍の独占販売権を獲得しました。そして、1916年に森六商店を改組し、「株式会社森六商店」として化学品商社の道を歩みだしたのです。

このように森六は、阿波藍の輸出からインド藍、人造藍の輸入へと、市場ニーズの変化を常に一歩先取りしながら、阿波から江戸へ、日本から世界へと、活躍の場を広げてきました。こうした、たゆまぬ挑戦の歴史が化学品商社としての森六の魂となり、さらに強くたくましい企業に成長する原動力となったのです。このDNAは、東証上場企業の10指に入る老舗企業として、創業360年にわたり存続・発展してきた森六のなかに、今なお脈々と受け継がれています。

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